
冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏(葛飾北斎筆・東京国立博物館所蔵)
ついに今日で最終回を迎える、NHK大河ドラマ「べらぼう」。約1年を通じて、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心に、江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあてられることになった。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の最終回となる第50回は、蔦重の没後に活躍したクリエーターたちについて解説しながら「もし蔦重が長生きしていたら、どんな作品が生まれたか」を考察する。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。
48歳で人生を閉じた蔦重、90年で廃業した耕書堂
寛政9(1797)年5月6日、江戸のメディア王・蔦屋重三郎は48歳で人生を終えることになった。当時「江戸患い」とも呼ばれた脚気に、寛政8(1796)年の秋には罹患していたようだ。
死を迎えるにあたって「今日の午の刻(正午12時)に自分は死ぬだろう」と予言した蔦重だったが、その日の夕刻に他界。番頭の勇助が二代目の「蔦屋重三郎」を襲名した。
だが、三代目の代から経営不振に陥り、日本橋通油町から浅草寺の雷門外へ移転。四代目の代では地本問屋の株も手放すことになった。四代目が没した年に、耕書堂は廃業に至る(過去記事「「べらぼう」蔦重亡きあとの耕書堂はどうなった?」参照)。
蔦重が安永2(1773)年に吉原で開業してからおよそ90年で、耕書堂の歴史が幕を閉じることになり、周囲は改めて初代の偉大さを痛感したに違いない。